執筆時点では八月末、そろそろ夏休みが終わり二学期が始まる時期だろう。
今年25歳であるカナタは夏休みというと思い出すのは、間近の高校生時代の記憶。
一年次のことだ。
休暇が明けるとともに学校が再開し、夏の終わり、同級生の関心は次の学校行事に向いている。
即ち、文化祭。
私の母校は進学校だったが気風が緩く、比較的自主性のある生徒が多かったためか学校行事はそれなりに盛大だった。
私も入っていた部活動での活動はもちろん、クラスの出し物等も色々皆で相談する。
しかし、私は夏休みの課題が終わっていなかった。
まだ中学生気分でぼんやりしていた私は、元々やるべきことを先延ばしにするタイプだった。
八月末まで課題の内容をよく確認もせず放っておいた結果、想定していたより量も内容もかなりハードルが高いのにも気づかず、最終的に帳尻を合わせることすらできない。
「今までは、酷くてもこんなことにはならなかったのに」
その課題を休みが終わってからもなんとか提出するために、行事の誘いを断り続けた。
周りにはそんなことになっている奴はいなかった。思わず涙が出た。
無駄に長くなったけど前書きはこんなもんにしとこう。
今回は高校生に向けたお話。
高校に入って勉強できなくなった君たちへ
前書きに書いたしょーもないエピソードにも、私のダメさ加減が詰まっている。
社会人になっては自慢にもならないことだが、私は中学までかなり優等生だった。
なんやかんやでそこまで上手く行っていたものが回らなくなったのは高校に入学してからの話。
結果から言うと、私は高校3年間まともに勉強をしなかった。
受験すらまともに対策せず、その後の展望などもちろんなく、
奇跡的に引っかかった三流大学に進学して、一年通って中退した。
どうしてそんなことになったのかと言えば、特に深い理由はない。
ただ色々と巡り合わせが悪かったのだと思う。自分の特性も含めてだ。
ネットでは「中学までは有能だったのに高校では〜」という話は割と多く聞くところだ。
一定数同じような道を辿ってしまう人間は多いようだ。ということは即ち、本人のせいにしろ環境のせいにしろ、何か落とし穴があるのだろう。
私自身、当時は何も考えていなかったとはいえ本当に後悔しがいのある思い出なので、どこで躓いたのか考えていきたい。
中学と高校の違い
これを見ているのが高校生だとしたらすでに実感していると思うが、中学と高校は何もかもが違う。
それは求められる物もそうであるし、周囲の環境だってそうだ。
勉強量が激増する
先にも書いたが私は勉強はできるけどめんどくさがりなタイプだった。
元から課題等はギリギリまで先延ばしにしていたし、テストの点が良けりゃいいの精神でいた。
定期テストがあればいくつかの教科(数学・理科)なんかは授業聞いてるだけでパスできたので、最低限暗記モノなど自宅勉強をしないとどうにもならないものに限って集中的にやって乗り切る。
しかし高校生となるとそのやり方は通用しない。
予習・復習の反復…と、当時の私は「良い子ちゃんみたいで怠いな」と思っていたことだが、やっていないとテスト前に青ざめることになる。
単純に量が多すぎて理解しきれないのだ。
教師がほとんどサポートしてくれなくなる
これは正直私の母校の校風だったかもしれないが挙げておく。
進学校では教師は生徒が落ちこぼれてもなんらサポートしない。
そもそもの生徒数が多くなる影響か、教務以外の仕事がおそらく多いのもあると思うが、こちらのことは顔と名前くらい覚えてもらえていればいい方だろう。
成績が右肩下がりで落ちていようが、いやむしろそうなればなるほど、担任教師以外は生徒に何の興味も示さなくなる。
勉強量が多いと言ったが、それは向こうにとっても同じ。大勢に勉強を教えねばならないのに、アホに構ってる暇はない。
誤解なきよう付け加えておけば、生徒の方から自主的に助けを求めれば応えてくれない教師はいない、と思う。
イメージとしては、そもそも教師と生徒の距離が遠くなる。といった感じだろうか。
当時の思い出から悪く言ってしまったけれど、要は中学までは「転ばぬよう手を引いて導いてくれる」存在だったものが「後ろからついてきて見守ってくれる」くらいの距離感になる。
同級生、偏った性質のグループに身を置くことの影響
中学までは地域でまとめられていただけなので、地域色はあれどいろんなタイプの人間がいただろう。
しかし多かれ少なかれ高校には特徴があって、そこに来ている同級生もそこに来るだけの特徴がある。
高校を選ぶときの基準は色々ある。偏差値、校風、服装etc…
何がどういう理由でそうなるのか詳しくはわからない。一つ思うのは
同じタイプの人間が集まったからといって居心地の良い環境になるかは別
だと思うのだ。
筆者の高校は、それなりの進学校かつ校風の緩いことで知られていた。
周りも同じくらい出来の良い生徒になれば相対的な成績は落ちて、モチベーションを保てなくなる。
校風が緩いのを期待して入学した人が一定数いるから表面的には余裕を持った人が多く、危機感を感じられない。
そして中学までは成績のよかったことだけが自尊心になって斜に構えた落ちこぼれ共の傷の舐め合いグループが発生する。
ある意味変わらないのは高校においても学校は一種の閉鎖空間だ。
高校で同級生達の雰囲気が変わったな、とまでは高校生だって感じられることだろうが、それが自分にどんな影響を与えているかは少し考えた方がいいと思うのだ。
正論:必要なのは自主性
やらなきゃならないことが増え、補助してくれる存在が減り、なんとなく置いて行かれる。
何が足りないのか、一言で言えば自主性ってやつである。
自己管理能力と言い換えてもいいかもしれない。
「高校生になったんだから」という言葉とともに語られがちな魔法の言葉だ。
これらを本当の意味で身につけるには自分で考え、計画を立て、努力し、失敗するのが一番いい。
それらが自然に身についている・身につく人種には私のような鈍間から特に何も言うことはない。
高校生は行動の自由度も格段に上がる。自分で成長していける人間にとっては、自由な環境に身を置けてさえいれば全てが学びだ。失敗ですらも全てが糧になることだろう。
環境が人を変える
しかし中学卒業した程度の段階でそこまで自覚している人間はいないと私は思う。
「自主性」なんてのは行動を後から振り返って気づく程度のことであって、いくら本人や周りが気にしたところで湧いて出てきたりはしない。
振り返ってみても思うのだが、ちゃんと行動できている同級生だってそこまでしっかり意識して動いてるというわけではなかった。
動き出せない人間が縋るべきは理想でも正論でもない。
行動するのに必要なのは習慣であり、そうなるための環境だ。
身も蓋もない結論:塾に通う
塾に行け。
身も蓋もないけれどそれが一番いい。効率的な勉強を教えてもらえるのだから皆塾に行けば良いのだ。
けれどその利点を少し違った角度から説明してみたい。
一般に言われていることまで含めて挙げていく。
予習・復習の必要ナシ
結局のところ高校で勉強についていけないのは予習・復習のサイクルがついてないだけであると思っている。
そんでもってそれができていない場合、学校の授業はほぼ無意味と化す。
正味を考えると一日当たり1時間ちょっとやれば全然変わるところの自宅勉強で本当に全てが変わってしまう。
「わからないこと」に積み上げて「新しいことを学ぶ」なんてことは頭が良かろうが無理だ。
そのために塾に通う。塾に通ってさえいれば受動的に学校の進度に合わせて予習・復習ができる。
進路も含め、塾講師に相談し放題
塾の規模にもよって変わってくる話だが、塾の講師と生徒の距離は高校教師とのそれとは比較にならない。
生徒を志望校に合格させることだけが彼らの目標であって、そのための方策なら何でも考えてくれる。
また講師先生は比較的年齢層が若くなりがちなので、生徒の目線に近いというのもポイント。
塾に行ったからと言って勉強をするのは自宅や自習室等の時間が多くなる。
継続的にやり続けることなので、勉強は特殊な作業ではなくライフサイクルだ。
生活の中に勉強とかいうタスクを無理やり挟み込むのだから、その方策についてアドバイスを行うならば、生徒の生活がある程度わかっている必要がある訳だ。
その点を考えると、年齢の近い人間に勉強を見てもらえるのは大きなメリット。
自分の実力が正確に計れる
高校受験を経て今の高校に入学している訳で、学校の成績ではその中での順位という形で自分の実力を知ることになる。
雑で下品な話だけれど「通っている高校では落ちこぼれだが、全体ではそうでもない」なんてことがある。
その逆も然りで、「学校の授業にはついていけているが、そもそも授業のレベルが低いだけだった」ということもある。
これらは定期的に開催される全国模試や、受験から逆算した勉強計画を立てられる人間にとっては重要ではないかもしれない。
しかし、勉強する意思が不足している人にとっては、自分の位置を意識することは非常に重要。
塾では、共に通う他校の生徒の成績と比較したり、講師の分析に従って知ることができる。これも大きなメリットだ。
塾にはいつから通うべきか?
塾に通い始めるのは早ければ早い方がいい。
そんでもって私の個人的な意見としては、
なんなら高校3年になったら辞めてもいい。極論すぎるけれども。
目標「大学合格」はまた別の話
ここまで主張してきた内容は、高校での勉強についていく方法・考え方だ。
私の持論の話になる。
勉強して受験することで得られる力は、どこ大学の何学部に行ってその後何をしようが確実に力になる。
というより大学で求められる能力こそ自己管理能力と自主性なのだ。
なんとなく授業聞いてた内容で合格したから行く大学生活はほぼ確実に失敗する。
高校1、2年の過ごし方で変わる
高校での授業カリキュラムは、1、2年で全ての範囲を終えて、3年で受験対策となる。
ここまで私が主張してきた内容からすると、塾を受験対策機関と捉えて、3年になってから通い始める、というのは相当な悪手だ。
3年になってからやれるのは演習を中心とした2年間でつけた知識の確認であって、1、2年で躓いているとやりようがないのだ。
高校3年生になってから「一日12時間勉強!」とかやらかすよりも、1、2年のころから一日1時間でいい。
塾に行って授業を聞き流す程度でも構わない。
「わけがわからないから勉強したくない」状態にならないことが、勉強で一番大事なことだ。
まとめ
人生は苦難の連続だ。
それを乗り越えるための矛と盾が、自主性と自己管理能力とも言えるかもしれない。
これら二つが筆者に備わっているのかといえば全くそうは思わない。
というより、大人になったらそれらは自分で測ることすら難しくなる。
大学以降では努力してもしなくても、やるべきことは人それぞれ。何かをやればそれなりになって、評価されるならいい方だ。人と比べることすらできないだろう。
自主性を持って行動しろ、自己管理能力を養え、とは言うけれど、本当はそれを今すぐ獲得しろと大人は求めている訳ではないと私は思う。
なにもわからずとも目の前のことをやってみよう。できないのなら環境を変えよう。
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